昨夜、偶然、何年間も探していたある詩を見つけました。
テニスンの樫の木という詩です。この詩そのものは以前すぐに見つけたのですがわたしは7年ほど前に目にした小塩トシ子さん訳が読みたかったのです。

きみの生命を生きよ
 若きも老いも
かなたに立つオークのように
春には輝くばかり
 黄金色の生を。

夏は豊穣
 そしてそれから
秋の変貌
より厳粛な色合いに
ふたたびの黄金色。

葉はすべて
 ついに払い落とされ
見よ、なお樹の立つのを。

幹も枝も
 つよく裸身で。


他の訳で読んでも最初にこの詩に触れた時の感動が忘れられなくてわたしはネットや書店でさがしたのですが見つけられないでいたのです。この小塩さん訳の『樫の木』は子供の幼稚園からいただいてくる「こころの友」という印刷物に書いてあったものでした。
ちょうど父が寝たきりの状態になって数年経った時で、わたしは父の姿にこの詩を重ね合わせて読んだのでした。
 それからしばらく大切にしていたのに何故か見当たらなくなってほんとうに残念で小塩さんの出版物に出会ったりすると注意して見ていました。昨夜他のことでバッポンさんの部屋に行った時偶然あるファイルを手にしましたところなんとそこにあったのです。きっと私のことだからどこかに置き忘れたのをバッポンさんが気を利かせて綴じておいてくれたのでしょう。(一言言ってくれたらもっとよかったのに)とにかくおかげで私は再びこの詩に出会うことができました。
 
 ちょうど先日何気なくつけていたTVから流れてきたナレーションに心打たれたのですがそれも樹についてでした。ほんの一部をそれも隣の部屋で聞いていたので何の番組であったのかも分かりません。「巨木」についての話のようでした。
 秋になって葉を落とすということは冬に負けないための大切な仕事なのだそうです。そしてその作業にはたいへんなエネルギーが必要なのだということです。葉に行く養分を断ち切って敢えて葉を落とす準備をするのだそうですがそれをするのに年を取りすぎている樹はなかなかそれがうまくいかないことがあって、その結果雪が降る前に完了することができずに冬を迎え枝を折ってしまうこともあるのだそうです。なにか心打たれることでした。葉を落とすということが時間の経過からくる運命的なものではなく、つまり若い盛りを過ぎたものがその成れの果てとしての状態ではなくて次の命を繋ぐために自らの意思でそれもたいへんな努力をはらって養分を断ち切るということ積極的な行為であるということ。これってすごいことだと思いました。そしてさらに年を取りついに折れてしまった枝からさらに次の世代の若い芽が出るという樹木の生命力わたしは励まされる思いで聴きました。

偶然かもしれませんがわたしはこの『樹』にまつわる再会と出会いにとても感謝しています。
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by mokomokoruka | 2006-03-07 09:50
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