戻ることに感謝するなんて

別な日記に記しましたがこちらにもコピペしておきます。

ミシンキルトを縫っていました。遡って5月6日の日記(別日記)で

「いつの間にか解決される種類の曖昧さとどんどん雪だるまのように大きくなる曖昧さと二通りがあって今回のはどうも後者のような気がする。どうしたらいいのかなあ。 」

と書きました。それをずっと引きずっていて、それが先日の友達との会話の中で何か糸口が見えたような気がしていました。でもそれからあまりに忙しくて試す時間も取れず今日まで来ました。

そして縫ってみて。。。今感動しています。自分で言うなんておかしいけど、本当に。

作品を作っていて作っているわたしが作品自体に引っ張られていくことがあります。この感覚がわたしはものすごく好きです。作品が私を離れて歩き出すこの感覚。これはめったに味わない感覚なのですが。

今日まさにそれを感じています。もしかしたらこうかなあと思いつつ試したことが自分の意図したことをはるかに超えて歩き出しました。思わず
「まいったね」
とつぶやかずにはいられませんでした。

あの時曖昧さをそのままにして歩みを進めないでよかった。
そして今回試した方法を取るということは実は曖昧なままに進んでいた部分をほどかなくてはなりません。ちょっと大変な手間ではあります。しかし立ち止まっていなかったらもっと傷は深くなっていたと思います。そして今気付いたことをまあいいやでそのままごまかすことももしかしたらできるかもしれないけれど(ままあるのです。ごまかしてそれがかえっていい効果を出すことも。それがいつの間にか解決される曖昧さなのだけど)でも今回のこれは根本部分だから私は敢えて戻ります。多分ほどくのに一日くらい掛かるかもしれないけどそれでもこのままに続けると結局のところこの作品自体を捨てることになると思うので。

あの時曖昧さに気付いて立ち止まってよかった。そして今のこの段階で戻ることを決断させられて本当に良かったと思います。

私はクリスチャンだから思うのかもしれないけど以前日記に書いたけどhttp://mokomokoru.exblog.jp/m2005-09-01/#2693786
真っ直ぐな道をボールが転がっていくより壁にぶつかって跳ね返っていろいろな方向に跳ぶ方がどれだけおもしろいか。
そしてその時にこそわたしの今歩まされているこの道は備えられた道なのだと確信することができるのです。自分勝手に歩いているのではなくておおいなるものに認められて許されて歩いている道なのだと。

曖昧さはその感覚つまり大いなるものとのつながりを確信できなかった時に起こるような気がします。道が見えなくてもそこに壁を感じてもつながりを感じる時わたしは小躍りしながら先に進むことができるのです。

聖書に祝福を与えるという言葉が出てくるけれどそれは決してこの世的に成功するということではないと思います。この許された道を歩んでいるという喜びを与えられることこそ祝福なのだと、神様と繋がっていると実感できるこの瞬間こそが祝福なのだとわたしは思うのです。

その思いで作っているこの作品。それが世間にたとえ評価されなくてもそれでもわたしにとっては大切な作品なのです。感謝。
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by mokomokoruka | 2006-05-12 12:45
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