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父の意思として

19日午前2時2分父が亡くなりました。私たちは無教会(教会という組織に属さないという内村鑑三先生の教えに共感した)クリスチャンです。父の葬儀の折仏教で言えばお通夜にあたる告別前夜式で私が述べた遺族代表の言葉の一文をここに載せておきます。
なぜこのような個人的な一文をここに載せることにしたかといいますと、父は元気な時、人の死はその機会を通して神様のことを伝える役目を仰せつかっていると申しておりました。父は自らの死が神様のお役に立てることをとても喜んでいたと思います。ですからこの一文をここに載せることを父は望んでいると思うのです。おそらく信仰をもたれない多くの方にはこの文章はとても難解であると思います。それでも故人の意思として公にいたします。お許しください。


「本日はお寒い中父瀧澤豊のためにこのように多くの皆様にお集まりいただきましてまことにありがとうございます。
父は奇しくも11年前のまさに今日と同じ1月21日に脳出血の発作を起こし病に倒れました。以来丸11年間後遺症のため全失語および右半身不随となり病床に臥しておりました。
 発病当初入院していた以外父は一度も家を離れたことがありませんでした。自宅の一室で多くの皆様に支えられ母の介護を受けながら過ごしておりました。初めの頃はショートスティやデーサービスなどもしてみたらと勧めたわたくしでしたが、どんな時にも二人でいたいということが父と母の固い意志でした。
 父は若い日にクリスチャンとなりました。結婚と同時に母も父に導かれてクリスチャンとなりました。そうした二人が送る療養生活の基盤は入院中術後2日目から毎日続けた「二人の集会」でありました。母が声を出して聖書を読み賛美歌を歌いお祈りをするという形でこの集会は守られました。父はお祈りの終わりに必ず「アー」とかすかな声で発音しました。父は「アーメン」と言っていたのだと思います。この集会は亡くなる前日まで続きました。
 二人の部屋はいつも明るく穏やかでした。父は失語症のために自ら話すことができません。こちらから話すことはある程度理解しておりましたが自分の意思を伝える術を奪われたということは日常生活においてどれほどつらいことだったでありましょう。けれど父は一度も癇癪を起こすことなくいつも穏やかでした。それをささえていたのはやはり、二人で行う集会にイエス様がいてくださって父を守っていてくださったからだと思えてなりません。
 そうして続いていた生活に変化が訪れたのは丸11年が終わろうとする昨年のクリスマスを終えた頃でした。父がまったく食べなくなってしまったのです。次第に体力がなくなりついに1月15日に主治医の先生から今日いっぱいであろうという診断を受けました。しかし父はそれから4日間精一杯がんばってくれました。そして19日の午前2時2分眠るように安らかに天に召されていきました。このような穏やかな闘病生活を送れたのは力を貸してくださった皆様のおかげと心より感謝しております。
 さて、これが父の発病からの様子のあらましのご報告でございます。本来ならばここで話をやめるべきなのですがわたくしはみなさまにどうしてももう一つ聞いていただきたいことがございます。父はかねがね話は短くするように申しておりましたがみなさまどうかお許しくださいましてもう少しお時間をくださいませ。

 それは父からのもらった最後のプレゼントについてです。
実は父が危篤状態に陥りました1月15日はわたくしの51歳の誕生日でございました。父は私の幼い日誕生日には美容院で髪を結わせ着物を着せてお祝いしてくれました。今回父のことをお聞きになって多くの方がお見舞いに来てくださいましたが私の幼い日を知る方はどなたも必ず父がどんなに私を可愛がっていたか、思い出話をしてくださいました。私自身本当に可愛がられたと思っております。それは幼い日も大人になってからもいつも変わりませんでした。子供時代にもわたくしが結婚して子供を持ってからもそれぞれの時にいろいろな思い出がありますが父はいつもやさしく私に接してくれました。
 父の危篤状態が知らされた15日わたくしは父のそばで必死に祈りました。
「神様、お誕生日が父の命日になるのはあまりに悲しすぎます。私には父にどうしても伝えなくてはならないことがあるのです。どうか父を今連れていかないでください。」
看護している者たちがそれぞれまだ父を送る心の準備が整っておりませんでした。
神様はわたしたちの願いを聞いてくださって奇跡的に回復させてくださいました。
翌16日父は意識も回復してわずかな時間ではありましたが、しっかりと父と心を通わせることができました。わたくしは父の目を見ながら話しました。
「今までごめんなさい。おじいちゃまの介護に対して本当に不誠実でした。ごめんなさい。許してくれる?」父は穏やかな表情でうなずいてくれました。その時私は本当に心が軽くなりました。そしてさらに
「本当はすぐ神様のところへ行きたいのでしょけれど、もう少し私に時間をください。おじいちゃまといっしょにいたいから」と申しますと涙でいっぱいの私の目を父も涙の溢れる目で見つめて困ったような表情を見せましたが、ゆっくりうなずいてくれました。それから半日ほどして父の意識はなくなりましたがそれでも精一杯のがんばりで呼吸を続けてくれました。わたくしは意識のなくなった父のそばで昔、父が仕事をする時よく口ずさんでいた賛美歌を歌い続けました。父の歌う声が聞こえてくるようでした。
 そうしながら私は落ち続ける点滴の袋を見ておりました。その時私は父から大きなプレゼントをもらったのです。
 実は私は一年ほど前から父を筆頭に家族が健康を損なっていくこと、自分自身が年を重ねていくことが不安で不安でたまりませんでした。それはいつの間にか「命」ということをどのように捉えればよいのかということにまで及んでいきました。もし命を生命というこの世的なことで考えればおぎゃあと生まれたその瞬間が100パーセントで日一日一分一秒それが減っていく。自分の命も愛するものの命もそうして減り続けているその瞬間瞬間を見続けていなければいけない残酷さを思い胸がつぶれるようでした。

本を読むことがあんなに好きだった父の頭、そして患者さんのために時間を惜しんで仕事をしていた器用な手、山を歩くことが大好きだった足、それが損なわれてしまった。そしていずれ父の命自体も消えていくということへの悲しみこれに打ち勝つことは不可能に思えるくらいでした。命が減り続けていくということへの恐怖は誰にも伝えようがありませんでした。ところが父の点滴の袋を見ていた瞬間にわたしは心の底からわかったのです。点滴の薬が父のこの世の命だとしたら薬が減った分袋の上部にできる空間、それこそが神様からいただく新しい命そのものなのだと。地上の命がなくなっていく瞬間毎に神様からの新しい命が増えていくのだと、私は気が付かされたのです。そうしてその時父の枕元に開いたままになっている聖書のある一節が目に飛び込んできました。それは今集会で学んでいるヨブ記の一節でした。
ヨブという人が神様に語りかける最後の言葉
「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。」
わたしはそれを読んだ瞬間に「死ぬ」という意味をはっきりと知りました。少しずつ自分の命を神様に明け渡し最後に完全に自分を退け神様をその身いっぱいにすること、それがこの世に生まれてくることそして死ぬことの意味なのだと。その瞬間にこの世に生を受けそして死に向かって生き最後に死によって完全に自分を退ける、その道を経なければ神様の国には行けないのだということを魂の底から分からせていただいたのです。
 命の意味に苦しんでいたわたしに父は最期の時に命を掛けて言葉を超えたメッセージを贈ってくれたのだと思いました。
これでわたしはこれからの日々を雄雄しく生きていくことができます。
わたしは父に子供の時から多くのものをもらいました。そして今地上の別れの時に最高のプレゼントをもらったのだと思います。父はよく
「今が一番いい。後ろを振り向いてはいけないよ。塩の柱になるから」と申しました。
わたしは今この言葉を話した父の本当の心を知ったような気がします。

父の呼吸が止まった時わたしは心からハレルヤと言いたかった。この瞬間父の体が神様によって満たされたと思ったからです。父の死はもはや人間のかかわる問題ではないと思いました。看病が足りなかったとか、こうすればもっと良かったとかそういうものもすべて消え去りました。今はただ父が天国で再び声を発し自由に手を使い行きたいところへ歩いていけるその姿を思い、神様に満たされた体になったのだと思うとわたくしはうれしいばかりです。
 以前本当に父の死を迎えたらどんなに悲しいだろうと想像していました。しかし父の死を通して与えられた恩恵によってわたしは心の底からハレルヤと声をあげながら父を見送ることができます。

 ずいぶん長く語ってしまいましたことをお許しください。
どうぞ皆様これからまだ地上の生活を続ける母をそして私たち家族一同なにとぞよろしくお願い申し上げます。本当に本日はありがとうございました。」
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by mokomokoruka | 2007-01-23 12:06 | 雑感